思ったこと

「家業を継がない」という話を泣きながら実父にしたときの話。

このテーマはめちゃくちゃ書くか迷った…のですが、でも、29年間ずっと心の隅を占めてきたものだったので「書かずに素通りはできない」感じで。
お付き合いいただけたらと思います。

 

わたしは一人っ子で、実家は生まれた時からずっと自営業(一代目)。
父母は共同で会社経営をしており、私の前で両親はいつも仕事の話をしていました。

ちなみに祖父の代までの親戚は、男女関係なくほぼ全員のキャラが社長の家系。
小さい頃って独特のコンプレックスを抱えがちですが、私はなぜか「なんでうちは自営業なの?勤め人の家庭がよかった!!」と思っていましたw

まあ、家とオフィスが一体化していて親を独り占めできる環境がなかったので、どこかしらに寂しい気持ちがあったのかもしれませんね。

 

私には、兄がいたはずでした。流産をして、生まれる前に亡くなってしまったのです。小学校か中学校くらいの時に母から教えてもらいました。

私にはもともと男性性っぽい気質が少なからず備わっていたので、
思春期くらいまでは「いっそ男に生まれたかった」という気持ちが強くありました。

自分の意見をハッキリ表明するタイプの父のこともいろいろな面で尊敬していたので、「男同士だったらもっといろんなことを話せたのだろうか」と考えると、だんだんと性別そのものがコンプレックスになってしまいました。

中学進学時には、スポーツマンだった父からなにかしら運動部への入部を進められて「やっぱり男だったらよかったのかも…」と思いこんでしまいました。

まあ、父もそんなに深く考えてなかったんだろうけど。自分自身がずっと運動部で、魅力をよく分かっていたからだと思うので…。

(このくだりを話したり書いたりしていると涙が出てくることがあったのですが、ひとしきり泣いた今ではマジでめちゃくちゃ謎の思考だったなと思っていますwww)

 

大学進学の進路を考えるときに音大に行きたかったのですが、「やっぱり楽器を仕事にしたいわけじゃないな〜〜」と思って取り組んでいた活動を辞めたときから、父に口を聞いてもらえなくなる時期がありました。

その時には絶望的な気持ちになり「私は期待に応えないと愛されない存在なのだ」と気が遠くなりました。
まあ今思えば、親子関係抜きに、心から応援していた人が勝手に目の前のことを投げ出したら…そりゃ怒るわなって話なんですけどね。
口聞きたくない!ってくらい、もともと応援したい強い気持ちがそこにあったんだろうなと。
(まあ、ちょっと押し付けが強いなとは感じていましたけどねw 私だけが自意識過剰だったわけでもない。)

しかし、当時の私はこんなふうに余裕をもつことは不可能だったので、親との関わり方をどうしたらいいか分からず、とりあえず何かのパフォーマンスや成績で応えようとしました。

一浪して早稲田大学に入学したときには「結果に満足している」と父からコメントされたので、「これでよかったんだな」と、偏った思想にますますマルをつけてしまいましたね。笑

 

 

…という感じで、思春期からずーーーっと

「自分の価値ってなんだろう、どうしたら愛されるんだろう」

と葛藤しながら、同時に

「うちは自営業だから、いつかは誰かがこの事業を継ぐことになるのか。廃業するのか。」
「継ぐなら私が?でもそれとは別に進路を望まれているし…どうするんだろうか。」

と、心の片隅ではずーーーーっと気になっていたんですね。

 

でも、なんとなく気まずくて、聞けなかった。
とにかく進路について親と一緒に話すことが怖かった。

期待外れのことをして愛されなくなるのが怖かったし、
やりたい!と思ったことが親の期待に沿わなかったら…と考えると恐怖だったので、
そもそも相談したいと思いませんでした。

なので、基本的には自分ひとりで試行錯誤をして、お金が必要な時に事後報告をしていました。
マジでクソみたいな報連相だったと思います。
そういう突飛な印象を与えるようなことをして、ますます心配させるという負のループへ!

 

…と、そんなこんなで。

いわゆる「いい会社」に就職し(当時の自分なりの信念はありましたがw)

全然活躍できず、体力も減っていき。

とある元旦に帰省したとき「辞めたい」と父にぽろっと打ち明けましたが「社会とはそもそも居心地の悪いものである」と説かれ撃沈し、もう体ぶっ壊すまでやってしまいました。

そこから独立して今に至るわけですが、良くも悪くも独立してガムシャラにやってきて、もう「気づいたら起業してた」ぐらいで先に既成事実ができてしまっていたので…

以前よりは、親の目や周囲の目を気にせずに、キャリア選択ができるようになっていました。
それでもまだまだグッチャグチャにいろいろと悩んではいましたが…。

山梨県都留市のフリーランスコミュニティで肩肘張らない友人関係をもち、いま交際しているパートナーとも半年くらいの付き合いになり。
だんだんと、自分らしい生活の基盤ができてきていました。

 

そんな去年の春に、わざわざ父が住んでいる山梨県まで訪ねてきて、「家を継いでくれないか」と相談してきたのです。

忘れもしない、喫茶店バンカムツルで。

「ああ、この時がきたか」と思いました。

 

いざ後継ぎを打診してもらって…

その打診をしてもらえること(=適格者であること)じたいに喜んでいる自分はいました。率直に「光栄です」と感謝の気持ちも伝えられました。

しかし… 小さい頃から薄々「やっぱり継ぐのは違うのではないか…」と心の底では分かっていたのです。

私は即答できず、「考えさせてください」と結論を保留にしました。

 

家業について考えざるを得なくなってから、一度は「自分自身の事業と、両立できるのではないか」と考えました。
今思えば、なんとか断らずにすむ道はないのか…と模索していたのだと思います。

地元の活動家といっしょに過ごしてみることもありました。
でも「自分の人生をかけて心の底からやりたいと思えるか?」と考えたときに、やっぱりしっくりきませんでした。

「やれって言われたから」
「子どもが後取りするって決まっているから」
「なくなるのが勿体ないから」

こんな軽い気持ちで手を出しても、いずれどこかでやらされ仕事だと感じてしまう日が来ると予測できました。
そうなるのだけは絶対に嫌でした。

私は、父が自分の事業に情熱をもっていることを知っていました。相手の誠実なオファーに応えるには、誠実な姿勢で回答できるようになりたいと思っていました。

でも、いくら考えて動いてみても、そこまで熱量を持っていくことはできませんでした。

 

私は、ますます必死で自分のキャリア形成について考えるようになりました。

例えば、自己理解のコミュニティ(エレメンツコードのコミュニティ「スクエア」)に新しく飛び込んでみて、自分の「かたち」は一体どんな「かたち」なのだろう、と途方に暮れながらもがいてみました。

いろいろな人とガチンコで関わりました。
自分の物事への向き・不向きも改めて見直しました。
どんなことに、どう五感が反応するのか、感覚を研ぎ澄ませるようにしてみました。

そんななかで自分の「かたち」はおぼろげながらに分かってきたのです。

(本当に、エレメンツコードとその素晴らしいコミュニティメンバーの存在がなかったらどうなっていただろうか…とゾッとしてしまいます。)

 

私はいろいろな場所を飛び回りたいし、人に影響を与えることが好きだ。
相手の「かたち」を一緒にみていく作業に、エネルギーを使っていきたい。

まさに私自身が今まで経験してきたことの「追体験」の作業に、だんだんと使命感を見出すようになりました。
思えば、性に関する活動も、田舎フリーランス養成講座のメンター業も、同じような信念に支えられながら知らず知らずのうちに続けてきました。

この考えがこの先、変わるかもしれません。
でも、私には私の「いまやりたいこと」がある。それに集中したい。

間に合わせの理由付けではなく、そう思えるようになりました。

 

そんなふうにだんだんと意思が固まってきてはいましたが…

「電話せねば、話す機会をつくらねば」と思いながらも、いつの間にやら3ヶ月が過ぎていました。
29年間の先延ばしはダテじゃなく、どうしても腰が重かったのです。

 

そんなとき、たまたまオンラインカウンセリングサービスcotree(コトリー)の有効ポイントが、三月末で期限切れになるとのメール通知が。

「自分が相談業をする側になるなら、相談にのってもらう機会も意図的につくって勉強しよう」という動機でポイント購入していたのです。
しかし、15,000円も支払っていたのに、なんだかんだ一度も使えていませんでした。

 

せっかくならポイントが切れる前に何か相談しよう…うーん…と唸っていたのですが…。

そうだ。家業のことをどうするか、話し合いのポイントを一緒に考えてもらおう。と考えつきました。

 

cotreeのカウンセラーさんと話す日は、ふじみ野の友人宅に泊まっていました。
バタバタと支度をして、友人宅の近くのガストに駆け込んでZOOMをつなぎました。

「ポイントを消費するために」「勉強がてら」と思って放置していたカウンセリングの機会だったのですが…

このカウンセリング体験が、思わぬ人生の転機に変わったのです。

それは木原さんという女性のカウンセラーさんでした。

この記事の前半に書いたような生い立ちと、その時々で感じてきたことをひととおりガーッと話しました。

 

「男の子だったらよかったのだろうか」
「見放され、愛されていないと思っていた」
「今更になって継いでと言われても」
「私のなかには満たされないと思ってきた部分があった」
「本音を出さずにいたのだ、本当は甘えたかったのだ」
「母は私の意見よりも父の機嫌を優先することがあった」
「私は父と母の関係を反面教師にしている部分がある」
「母に父の愚痴を言われるのが嫌だった、はっきり本人に言えばいいのにと思った」

 

木原さんにぶちまけて全部話していくうちに、あれ…私はなぜ親のことになるとこんなにネガティブな思考になるのかな…と、ジワジワと違和感がわいてきました。

 

私が一息ついたタイミングを見計らって、木原さんは力強く私の目をみて言いました。

「あなたは、ご両親から愛されていますよ。」

 

えっ…!

私は面喰らってしまいました。

 

「継がないか、という話は、もしかしたらあなたのことを心配して選択肢を示してくれたという意味合いもあったのでは?」

ああ…

そう言われてみればそうかもしれないし、そもそもその話をしたときに「継いでもいいし、継がなくてもいいし、任せようと思ってる」って、しっかり判断を委ねてくれていたっけ…

 

「ときどきは、子どもにも愚痴を言いたくなる時もあるよね」

たしかに、母が愚痴を言ってきたのはいつもではない、ときどきだったな…

 

「ご両親はお互いにうまく共同生活する方法を知っているんだと思う、そうじゃないと結婚生活はそんなに長く続いていないと思う」

たしかに、反面教師にするには、かなり問題が少ない方かも。

 

などなど…

木原さんとの時間は、カウンセリングの技法でいえば、リフレーミング(捉え方をポジティブに変えてみる)の連発だったのです。

さらに、木原さんご自身もお子さんをお持ちだったので、ますます説得力がありました。

軽い気持ちで受けるはずだったカウンセリングだったのですが、最後は涙が止まらなくなっていました。確実に人生を変えてくれる時間だったと思います。

木原さんは、具体的にどう話していったらよさそうか、切り出し方のアドバイスまでくれました。本当に相談してみてよかったです。

 

カウンセリングを受けたのは、奇しくもお彼岸直前のタイミング。
また、仕事に打ち込むために、4〜5月は都内に下宿しようと思っていました。

帰省するなら今しかないと思いました。

 

まずは母に電話して、いまが仕事の繁忙期じゃないか確認の根回し。「いつでも大丈夫」と言ってくれました。
そのまま父に電話して「ちゃんと話がしたい」と切り出しました。はい分かった、と言ってくれました。

茨城へ向かう電車の中で、これからきたるべき会話を受け止められるのかすこし不安になりましたが、
同時に、自分はすべきことをしているんだという安心感もありました。

 

ネガティブにとらえるには、ネガティブに捉える理由がどこかにあるのです。

私はもしかしたらどこかで、

「親を裏切って、差し置いて、幸せになってはいけないのではないか?」

あるいは、

「親からかけてほしかった言葉をかけてもらうまで、自力で幸せになんてなってたまるか。私を愛しているとまずは認めてほしい。」

くらいに感じていたのかもしれません。

 

しかし、そもそも、私がそんなふうに感じるべき理由なんてどこにもなかったのです。

脳が勝手にプログラムを組んでいただけ。

 

愛されていない… と感じているときには、「愛されていない」を証明するような情報を受け取りやすくなります。

しかし、木原さんと話して、私は愛されていたんだ…と思い直してからは、「愛されている」を確かめるような情報の探し方をするようになったことに気がつきました。

 

まるで、脳内記憶をザーーーーッと高速で上書きされているような感覚がありました。

そういえば、あの時も、この時も、優しさを受け取っていたじゃないか!と、後から後からいい思い出ばかりが溢れ出してくる感覚がありました。

 

両親はそういえばいつも2人で駅まで送り迎えしてくれていました。忙しくて、仕事があるだろうに…。
父が運転し母が助手席。
車のナンバープレートも、なんと私ににちなんだ数字にしているのである。
私が生まれた瞬間の写真をずっと居間に飾っている。
パソコンのマウスパッドにも母と私の写真が挟み込まれている。
家に帰れば、開けていなかったお酒を一緒にあけてくれる…。

思えば、進路やパートナー選びにだっていつもいつも口を出してきたわけではない。
「これは言うべきだ」ということはハッキリ忠告してくれるけど、ほとんどの判断は思い切って放置してくれているのだ。

 

そう思うと…

私は愛されていないわけがなかったのだ。

私がそれを受け取ろうとしていなかっただけだったのだ。

 

 

考え方一つで、こうも現実の捉え方が変わるとは…!

 

 

それで…

実家に帰ってから最初の日は、いつ話そうか…とタイミングを逃し続けて終わってしまった。
今話しかけようか、今か…と構えていたのだけど、ついに眠たくなってきてしまった。

でもだんだんと空気がほがらかになってきた。

2日目の朝に「そろそろちゃんと話がしたいんだけど…」と父に切り出したら「あ、じゃあ今どうぞ、はい!!笑」と促された。

父もなんとなく緊張していたようだったけど、ちゃんと聞いてくれた。

 

まずは返事が遅れて申し訳なかったこと。

私が自分のやりたいことに集中しようと思っていること。

両立を考えたけど、どちらも中途半端になりそうなこと。

「言われたからやる」という無責任な態度ではできないと思っていること。

もし余分にお金が必要なら、その分も頑張って稼ごうと思っていること。

でも、実家の事業は尊敬しているし、地域にとってもなくてはならないものだから、無くしたくないと思っていること。

無くさないための手伝いなら喜んで引き受けること…

正直にすべて伝えることができた。

 

途中で泣きたくはないと思っていたけど、まあ無理だった。
ティッシュをもってきて、めがねも外しながら、泣きながら全部話した。

私はおそらく
「泣きながら、感情をさらけ出しながら、父の前で告白をすること」
このイメージが恐怖だったんだと思う。

どこにも逃げられず、本音でやりとりするイメージが。

頭の中で何度も何度も思い描いては恐れてかき消してきた、自分の姿そのものだった。

でも、恐れているかわりに、本当はずっと「そうしたい」と思ってきたことでもあったと気がついた。

 

父は受け止めてくれた。もちろんガッカリしないわけではない、と教えてくれた。
でも最後は「じゃあ、がんばれ」と背中を押してくれた。

 

私は父と母、その2人が作り上げてきた事業を尊敬していたし、自分が継ぐ・継がないの話ではなく、
「こういう形あるもの、信念を反映したものを自分の代で作り上げられる人間性」そのものに尊敬の念を抱いていた。

だから、私自身も「そうなりたい、それを越えたい」と思っている。

 

だから私が最後に伝えたことは「私はどこまでいっても父の娘だと思っているし」「目標があるとすれば、父を超えることです」と。

父は「志が低すぎる!」と笑っていたけど、
その瞬間に、親子関係だけではない、なにか、人間どうし、というか、先生と後輩、というか…
「人生をともに行う仲間」のような感覚がわたしのなかに芽生えたのだ。

私は、メンターという存在はどこか遠くに、仙人のように存在してるようなイメージがあった。でもメンターは身近にいるものなのだ。

一通り話した後に、パートナーと結婚しようと思うのだけどどうか?と相談したら、「(私が)決めた人ならいいと思う、大人になったようだから…」と父がつぶやいた。

父もいま私が感じているのと似たような感覚を持ってくれているのかと思うと嬉しかった。

その後は、経営において大事なことについて、父の考えをいろいろと聞かせてくれた。

 

 

定期的に帰省はしていて、顔を出せる身近な親戚にはちょいちょい会っていたけれど、
親戚たちは私に対して「何屋なの?」「結婚は、孫は?」「いつこっちに帰ってくるの」とよく言ってくるから…

「親戚で年上というだけでマウンティングをとって価値観を押し付けてくるこの人たちに私の話をしても理解が得られずムダでしょ」とどこかで諦めていた。

でも、それは私のことを心配してくれていたからだ。その表出のしかたを私が理解しようとしなかっただけで、愛情表現だったのだ。

 

父と話をした後、いつものように近所の親戚の家に行って…(本当はちょっと気乗りしなかった)

また案の定「はやく結婚したほうがいい、孫の顔見せて」と言うので。

いっつもその話するじゃん!!!!!と、正直に嫌悪感をぶちまけてみたら。

 

だってね、従姉妹はちょっと高齢出産だったから、育児への体力がなくて本当に大変な思いをしたの。
あなたにそうなって欲しくないと思って言っているんだよ…

と、なんとはなしに、意図を話してくれた。

「…まあ、そうだよね」と拍子抜けしてしまった。確かに、実体験にもとづいて、私の人生に一歩踏み込んで提案してくれている助言にすぎない。

 

べつの親戚には「何屋なの?」と、また案の定聞かれたのでw、

記事を書いたり、先生したり、カウンセリングしたりしてるよ、と話したら

「あ、そうなの」と、あっさり会話が終わった。

相手は私のことを知りたいと思ってくれていた、ただそれだけのことだったんだ。

 

そのあとは、久々にたわいもない雑談で数時間盛り上がって話をすることができた。

普段どんなことを考えて過ごしているのか、どんなことを大切にしているのか。

そんな話を聞くだけでなんだか楽しかった。

 

本当は…

私は彼ら(親戚)に、私が何を大切にしているのか理解をして欲しかったんだと思う。

なぜなら誰よりも私を愛して応援してくれる存在だと、心の底ではわかっていたからだ。

 

今までは、理解して欲しいけど「理解されないかもしれない」という予期不安を越えられなかった。
大切な存在だからこそ不安に感じていた、ということでもあったし、
一歩踏み出して「これが私だ」と言えるほど、肚が決まっていなかったのだ。

シンプルなことで、ただ「私は私の道を行くから」ときちんと説明できればよかったのだ。

その上で理解されなかったら、それはそれなのだ。言うべきことは言ったから後悔は残らない。

 

 

結局帰りも、父母両親揃って、最寄りの駅まで送ってくれた。

「ちゃんと話せてよかった、つぎはパートナーを連れてきます」と。

 

この話をきちんとする前に、父母に万一のことがあったら、きっと死ぬほど後悔したと思う。
もちろん、家族や親戚と、パートナーや将来の子らも一緒に、もっと思い出を作りたい。
そんな気持ちは依然ある。

でもワンチャン、
もう激しい後悔は残らないだろうな、という心持ちにはなれたような気がする。

 

・・・一連の件で思ったのは、私はめちゃくちゃ家族思いの優しい子だということ(笑)

 

 

ちなみに…

この記事を書き始める直前にエヴァンゲリオン最後の映画を見たのだけど、ワイ、なんかシンジくんと同じことしてるんじゃないか〜〜??と思ってクソワロでしたwww

 

今日のこの気持ちを忘れないよう、記事の形にできてよかったです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。