2020年は、マジでブログを書かない年だった。
ことし11月までで、セックスカウンセラーの情報発信で運営している「ぽかべドットコム」の更新記事数は26記事、この雑記ブログ「ぽかリゾート」では6記事でした。
人によってはもしかして「結構書いてるじゃん」と思うかもしれないけど、なんかこう、感情を乗っけた感じがあまりなくて。
SEO記事やインタビュー記事が多かったので、自分の考えを自由にコンテンツにする記事はほとんどなかったんですよね。
あと、1年半くらい書いていた、雑記的なnoteアカウントも(精神崩壊により)抹消してしまったので、自己表現の場をほとんど確保できなかったような…。今は新しいnoteアカウントに書いています。
情報発信をなりわいにしている者としては、消極的だったと言わざるを得ない状況だなと振り返っています。
なんで自己表現を辞めてしまったんだろう?

単純に「忙しかった」のもあるとは思うのですが、メンタル的に自己表現にブレーキをかける要素があったんだろうなと推測してます。
それは、すばり、身近な人たちの目が気になったからだったんじゃないか、と思っています。
ブログを始めた当初は、私のことを知らない人たちが記事を読んでくれていました。
リアルな知り合いも読んでくれることはあったけど、物理的に顔を見ることはあまりないし、ときどきSNSでコメントをくれるような距離感でした。
それが私にとっては逆に気楽だったし、会社辞めてブログやってるような人がレアな環境だったので、なんでもネタにできるような感じがしていたものです。
ネットの海に言葉をぽいぽい投げ込んで、「そのうち誰かが目にするんだろうな〜〜」と漠然と予期しているような感覚でした。
ただ、いろいろな生き方の人たちと繋がる中で、似たような価値観をもって、似たようなライフスタイルを送る仲間も増えました。
私がざっくりとネタにしていたことは、ほとんど周囲の「共通言語」のような感覚。
LINEで直接やりとりするよりも、TwitterなどのSNSで生存確認・ダレがいま何をしてるか確認しあうような感覚が共有されている。一部の仲間たちは、住んでる地域も一緒なので、「ご近所さん」です。
自分の中では、ネットの発信内容=その人のイマの状態を表すもの、ってカラーに変化していました。
まるで、集団回覧板のような状態!
いまや、自分のコンテンツを目にしている相手の顔がリアルに想像できてしまうのです。それ自体はいいことなのですが、表情だけでなく反応のセリフまで想像できてしまう、というか…。
そんな中で自分の意見をコンテンツにする…って、わざわざコミュニティに波風立てるようなものじゃない?(笑)と感じていたんだと思います。
実際に、SNSに文章を投稿して、知ってる人数名から反対意見のコメントがついたり、引用RTで違うよこれは、って言われたりしたことがありました。
また、自分が何気なく書いた一言が「劣等感を煽られる」と、知らない間に誰かを傷つけていたこともあったようです。
私はいままで、自己表現をしたばっかりに、各ライフステージでもれなく村八分になった経験を網羅してきているので、正直言って怖かったです。
そんな小さな経験が少しずつ重なって、自己表現をすること自体にあまりいいイメージが持てなくなっていたのかもしれません。
ウザいと思われようが自己表現をするのが私らしさだ

ただ、こうして文章を書いていると、自分が考えていることの輪郭が見えてきてスッキリしますし、癒されます。
私は文章を書くことでセルフカウンセリングしてるんだろうなと感じます。
実際に、この記事は、メッセージだけが最初にあって、構成も内容も決めずに書き始めました。
その過程で「ああ、自分ってこんなことを考えていたんだな…」と、すでに発見がたくさんあって楽しいです。
ブログを書く時間は、私が純粋に楽しいと思える時間。やっぱり記事を書き続けたいですね!
あと、私の発信活動を見てくれているのは、なにも身近な人たちだけじゃない。そんな当たり前のこともようやく気がついてきました。
先日、次世代生き方図鑑 vol.2掲載のためのインタビュー取材を受けて、
「そうか…世間的にみたら、フリーランスでこんなテーマで複業してパートナーと賃貸借りて田舎暮らししてるアラサー女性の生き方って、もっとサンプルとして広まってもいいよな…」
と、改めて、自分が辿ってきた生き方のおもしろさを客観視することができました。
会社員のときにいなフリの情報に手が届かなかった、ちょっと前の自分のような人のためにも、もっと発信していきたいことがたくさんあるなぁ…って。
今いるコミュニティの外側に、いちど目線をうつして活動してみようかな、と思います。
あと…
どれだけ身近な人でも、すべての人と仲良くすることはムリだと諦めがつきました。
意見を伝え合って、「あ、苦手だな」って分かって身を引いてもらえるなら、そのほうがお互いにとってエネルギーを適切な場所に注げて、いいじゃないか。
逆に、ブログに共感してもらえる人とは、そのぶんだけ熱い思いを共感しあえるじゃないか。
「ウザい」と思われて距離を置かれるのなら、その人と離別するタイミングは遅かれ早かれどこかでやってくるのだから、タイミングが早まるのなら、それはそれでいいじゃないか。
「ウザい」と思われたうえでも、ほかの部分に共感してくれるのなら、それはそれでいいじゃないか。
一部の「ウザい」をおそれて、自分を表現することを忘れてしまったら、その表現で元気をもらえる人にも言葉はずっと届かないままになってしまう。
だったら、やっぱり発信を続けていくべきじゃないだろうか。
身近な人たちのことが大切で、傷つけたくもないし、もういい加減傷つきたくもない…と思っていたのですが、それでは、肝心の「私らしさ」がなくなってしまうなと。
私は、関わってくれる人たちが、それぞれ自分らしくしている瞬間が大好きです。ですので、まずは自分から、改めて自己開示してみようと思いました ٩( ‘ω’ )و
読み手の感情を想像する優しさや責任感は持ちながら、かといって、読み手の反応に合わせて自分らしさを押し殺すような姿勢にはならないように。
そんなバランスを勉強させてもらったな、と思っています。
きっと、ブログの記事数を増やすことよりも大切な学びだったなと振り返っております。
ということで、12月は今年ラストスパートで、ブログ記事をもっと充実させていけるようがんばるます!
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